文化の町倉敷には憲法9条がよく似合う〜倉敷9条の会

 トップページ 

倉敷9条の会第4回総会開く
3周年 総会と講演会の集い 於 倉敷労働会館

去る10月25日、倉敷9条の会第4回総会を開催した。「憲法九条が危ない、平和憲法を守り生かす会を当地にも結成を」と、声をあげてから丸3年になる。この間、改憲勢力に対抗して全国に誕生した「九条の会」は7039団体に上る。しかし一方では、国民投票法の成立など改憲への布石は打たれ、泥沼化したイラク戦争では今も毎日のように犠牲者が出ている。こうした状況下で、期待と不安、前進と停滞を綯い交ぜに歩いた3年でもあった。
開会挨拶 佐藤さん
総会は、佐藤世話人の挨拶、松田議長の進行で和やかに行われた(後述)。 世話人代表 室山さん
続いて高田雅之氏より、「戦中、戦後の青春」と題し、昭和史をまるごと生きた貴重な体験を大所高所から語っていただいた (内容は新年号で紹介)。
講演 高田さん

がんばっています署名活動、皆さんご協力下さい。
倉敷9条の会では、偶数月の9日に倉敷駅前で署名活動を続けています。写真は10月9日の様子です。この日は県知事選への配慮から拡声器の使用は遠慮して、メガホンで訴えました。最初は勇気がいりました。言葉に詰まり赤面する場面もしばしばで、立つだけで恥ずかしかった。でも、「戦争だけはイヤ」「九条は世界の宝」と訴え続けています。あなたも一度マイクを握ってみませんか?
10月9日活動の様子

ニュース

室山さんに文化章
「倉敷9条の会・呼びかけ人代表」でもある室山貴義氏に、本年度の市文化章が贈られることになりました。この章は倉敷市の文化の発展に貢献した個人に贈られるもので、景観保存や音楽会創設など長年に渡って文化振興に寄与したことが評価されたものです。 室山さんはご存じの通り「倉敷9条の会」の重鎮。作詞家としてもご活躍のほか、今年6月に『倉敷の町並み保存と助役・室山貴義』を出版して話題になりました。心よりお喜び申しあげます。

寄 稿

恐ろしい戦争の記憶の風化  日笠 俊男
恐ろしいのは風化。それはどんなウソでもホントにしてしまうからである。戦争のとき「大原美術館が街を救った」という話がそれである。この話には、1932(昭和7)年に、来日のリットン調査団のおかげ説を重ねているものもあるので驚く。 地元で観光ガイドをしているある女性は、『同人誌』(2005年)で自分は『世界的に有名な名画が沢山揃っているので、第2次大戦の時に爆撃から免れたそうです』と説明していると書いている。JR西日本の『広報誌』(2005年)は、「空襲から街を救った美術館」の題を置いて「戦争中、倉敷が空襲を免れたのは、人類共通の財産である世界的な美術品や絵画を爆撃で焼失させるなという連合軍指令部の指示で爆撃目標から外されたと言われている」と書いている。また、わが家にたまたま届いた「岡山人の生活情報誌」を名のるフリーペーパー(2005年)を見ると、「倉敷が空爆を受けなかったのは多くの世界的名画があったからと言われている」とある。しかし“言われている”というが、それはすべて根も葉もない話。それ故傍点の言われているは実に曲者。次のものに注目。「ここで忘れぬうちに書きとめておきたいことは、倉敷の真中にある大原美術館に数多くの泰西名画が所蔵されており、この事実で米軍が倉敷を爆撃の目標から除外していたということがある。多数の高射砲よりも泰西名画の方が防空に役立つのだ」(地元の『戦後60年小・中学生の戦争体験記』2006年)。ここではもうウソが殆ど歴史のホントになりおおせている。 ウソは、記憶の風化を栄養源にしてどこまでも増殖する。恐ろしいのは風化。そしてその風化の栄養源は、私たちの無知。つまり歴史の真実をきちんと学んでいないことである。 筆者は5年前に、美術館の倉敷も日本の敗戦がもう少し遅れていれば間違いなくB‐29に大空襲(多数機による)されていたこと、またその論拠のひとつであるB‐29部隊情報部の『目標情報票・倉敷1945・8・8付』(出撃の直前に作戦機に渡される)の存在を紹介した。(空襲・戦災を記録する会全国連絡会議会報『空襲通信第5号2003年』)ひとつの資料の紹介で、歴史の風化の歯止めになるなどとは思っていないが、そのとき地元でこの紹介が注目されることも殆どなかったのも事実。 要は、あのときの戦争、また倉敷の戦争がどれほどのものだったのか。それを詳細具体的に掘り起こし、たしかな事実の歴史の記録を自分たちでつくらなければならない。それなくして無知から脱却はできない。 ウソは元から断たなければダメ。このままでは、あの戦争の反省のなかで折角手に入れた憲法9条を泣かすことになる。
(後期高齢者・岡山空襲資料センター代表)

映画「チンパオ」に寄せられたみなさんのご感想を特集しました。
このたび映画「チンパオ」を見ました。以前に原作「少年の目」を読んでいましたので幸運でした。原作は映画より日本人の相澤さんの様子がよくわかりますので少年少女に読んでほしい作品だと思いました。 3年前のことです。私が「ロキョウコウ」の見学をした折り、同行の京都残留孤児の世話をしている女性は、「橋の上で自転車の老人に中国語で『日本人です。ごめんね』と言葉をかけると、『軍が悪いだけだよ』と言ってくれたわ」と言っていました。彼女の一家は引揚者です。そこの戦争記念館は改装中で入れなかったので、全員(8人)が残念がったものでした。 このところ、中国の映画によく行きます。亡き父は、戦時岡山からの110師団で中国からフィリピン(ミンダナオ島)に行き、餓死街道そのものを体験し、ジャングルですごしていました。私は幼い頃から戦争体験を聞いて育ち、原作を読んでいてもうなづくことも多かったのですが、そこに住む人達の苦しみまでは、わかりませんでした。この映画には、侵略された側の苦しみがよく表現されていて良かったです。いっしょに観た義理の父(89歳)は「わしは海軍だったし、この頃内地勤務だったけど、陸軍の人は気の毒よなあ。じゃけど、牛一頭で射殺されるところは理解できん」と言いました。本の中には、そこの部分は無く、「少年の目」が印象に残っていてホッとしました。 この映画と本を紹介して下さり本当にありがとうございました。 私は父から戦争体験を聞くことで、一層戦争をしてはいけないと幼い頃から感じてきました。父の無二の戦友も他界し、遺族の娘さんと息子さんも戦争の話を聞いて育ったと聞き、友達の子同士親しみを持ちました。その人達も人一倍反戦の意志が堅いことを再確認し、父たちの遺した反戦の気持ちを伝えたいと思うこのごろです。
(T・N)

「戦争ダメ」
戦争がどんなにひどいものか。 戦争で体験したことがその人のその後の人生をも苦しめるのだ。 戦争に接した人々は誰もが不幸だ。個人の考えで行動したくてもできない軍隊。どんなにストレスがあった事でしょう。でも戦争をしているうちにそのストレスもなくなりそうすることが当たり前になってしまう。 仲間が死んでも相手を殺しても感情が動かなくなってしまう。本当におそろしい。戦争がなくならない今の世界。戦争をしなくてもよい世界はこないかもしれない。 新たに戦争がはじまらない事を祈るばかりだ。「戦争ダメ」を言い続けよう。
(L・M)

義兄(長姉の夫)を南方で戦死という知らせを姉は三人目の子供がおなかにいる時受け取りました。送られてきた遺骨は石ばかりで、姉は信じることが出来ず、ずっと着物をぬぐことなく帰りを待ちつづけていました。この死をむだにせず、戦争をしないと誓った日本の憲法をしっかり守って平和を求めつづけたいと思いました。
(K・O)

みんなで作ろう平和カルタ

家族みんなで楽しみながら
「9条」で守られた平和な日本をイメージできる
希望と元気のあふれるカルタを作りましょう! 

『募集内容』
〇「あ」〜「ん」の読み札の募集
形式自由。字数のMAXは17文字を目安にしてください。
絵の得意な方はイラストもお寄せください。
〇〆  切 2008年12月末日
〇応募方法 はがき、ファッス等で受付ます。
〇宛  先 710-0043 倉敷市羽島368-2石井和子 FAX 086-424-9764

追 悼  長谷川清先生
石井 和子

白寿を迎えられた先生に、会報「夏季号」(十四号)をお届けにあがったのは、暑いこの夏の最中でした。
「よく来られた」と玄関まで出ていらっしゃり、受け取られました…これが先生にお会いする最後になろうとは思いもしませんでした。
思い返せば、この倉敷で平和を守り広める会・憲法九条を学び、戦争のない世界・国づくりを求める会の立ち上げの呼びかけ人にと、先生にお願すると、「老骨に鞭うってがんばりましょう」と、引き受けてくださいました。発足時の役員会に出席くださり、最長老者、教育者の戦争体験のお話を聞かせていただきました。それから丁度四年目の月に悲報が届きました。奥様と合わせて二百歳を目指しているとお聞きしてから一年、先立たれてしまった今、いかがお過ごしかと、奥様のことが案じられます。 先生に長寿の秘訣はどんなことが大切ですかと、お尋ねしたことがあります。答えは「運動と学ぶこと」で、毎日歩いている「西小学校の西通りが素晴らしい夕焼け通りだよ」と教えてくださいました。
学ぶことでは「本を読み、書いたり、話したりすること」でした。 先生がお示し下さった平和思考を希望の道しるべとして、私達も夕陽に染まりながら歩んで行きたいと思います。 安らかにお眠りください__合掌。
*倉敷九条の会・呼びかけ人で教育者の長谷川清さんは十月十七日亡くなられました。享年百歳でした。謹んでお報せします。


 トップページ 
inserted by FC2 system