文化の町倉敷には憲法9条がよく似合う〜倉敷9条の会

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倉敷9条の会  会報No.16 新年号
新年のご挨拶

 あなたへ
   あけましておめでとうございます。倉敷9条の会もお陰様で4度目の暦をめくりました。 この間の成果を数字で表せば、会員数480名、募金890口、署名1900筆……この数をあなたはどう評価されるのでしょう。 今年も草の根運動としてしっかり根をはって行こうと思っています。どうか見守っていてください。

おりしも米大統領がチェンジしました。ブッシュの八年間は、21世紀の開幕劇としては散々でした 。日本の空にも暗雲が立ち込め、きな臭いことばかり起こりました。今は新星オバマの演じる第2幕に夢を託そうとしています。 「何となく明日はよき事あるごとく……」そんな啄木の心境か。ただ、強い者指向のアメリカのこと、たやすく変革できるとも思えません。 結局のところ、あなただけが頼りの局面が今後も続くのでしょう。

孤軍奮闘のあなたを擁護しようと全国で7千を越える「会」が結成されています。 その一つ、昨年子どもの本に関わっている作家や出版社で立ち上げた集会で鳴らされた警鐘から、


「結局は、争いをやめることができずに人間は、滅びてしまうんだろうけど、
その瓦礫を片付けていると、 なにか光るものがあって見てみたら、
それは、憲法九条だったって発見が、次世代生物によってなされるのさ。
かつてこんな理想を持った国があったんだなぁって、
彼らは、きっと、大きく感心して、そっと、涙するんだよ」    (中川ひろたか)



こんな風にならないよう、危機感をもって頑張るしかありませんね。今年もよろしくお願いします。





戦争は
太郎の馬も徴用した
太郎は
納戸にかくれて
馬が連れ去られる音を
きいていた
集められた馬は
真夜中に
村道を通りぬけた
たくさんの足音のなかに
太郎は
自分の馬の足音を
たしかにききわけていた
闇のなか
馬は
太郎の家の前で
一声いなないて
去っていった
――馬は かしこい動物です――
いま
年老いた太郎先生は
たてがみのような白髪で
あの時代のことを
生徒たちに話しつづける


    松ぼっくり同人 坪井あきこ



岡山県中学校弁論大会から
「わ た し の 主 張」
それでもなお、明日を信じて
倉敷市立琴浦中3年 宮田 夏帆
“戦争とは、いったい何ですか”
山陽新聞社長賞

 「行ってきます」「気を付けて行くんよ」。毎朝家庭の誰かと交わす、何でもないあいさつが最近、私の中である種の重みを持つようになってきました。 修学旅行で長崎から帰ってきたころからではないかと思います。旅先では、見る物、聞く物すべてが新鮮に思えていました。ホテルで語り部の方に会い、あの話を聞くまでは……。
 学校の授業でも教わり、頭の中ではある程度理解していたつもりでした。次々と見せられる写真や資料で、自分の顔がこわばっていくのが分かりました。心が凍り付くとは、 こういうことかと思いました。人が一瞬にして焼け焦げ、背中がただれ、目が飛び出し、あまりのむごさに体の震えが止まらず、吐き気さえ覚えました。 正直、今の時代に生まれてきて、本当によかったと思ってしまいました。でも、これが、確かに63年前に起こった現実なのです。原爆投下の惨状なのです。 そして今なお、心も体もずたずたになって、懸命に生きている人たちがいるのも、紛れもなく、すべて現実なのです。 そして今、この語り部の方たちは亡くなった人たちに代わり、真正面から後世にこの惨状を二度と繰り返すことのないようにと願い、私たちに語り伝えているのです。 表情は物静かに、しかし、魂が絞り出す声のように聞こえました。
 私は職場体験で年配者の方から戦争当時の話を聞く機会がありました。「学校に行きたかった」「好きな事を何でもやってみたかった」「何もかもお国のために我慢し、 そして何もかも失った。でも生きていれば、生きてさえいればの気持ちで頑張ってきた」。 これらの言葉が目の前の写真や資料と重なり、戦争とは、いったい何の意味があるのだろうと、何度も何度も繰り返し考えるようになりました。
 授業の一環で「戦場のピアニスト」という映画を見る機会がありました。まるで人間がただのゲームの的のように次々と撃たれ、殺され、ごみの山のように重ねられるなど、 いろいろなシーンが私の脳裏から離れず、見終わった時には、怒りなのか、悲しみなのかさえも分からない感情がわき起こり、涙があふれて仕方ありませんでした。て
 誰か教えてください。戦争とはいったい何ですか。勝者は何を得るのですが。戦争と殺人との違いは何ですか。死刑廃止と叫ばれている現代に戦争で人の命を奪うことは 許されるのですか。「原爆の使用は人類の自殺です」「武器で平和はつくれません」。語り部の方の最後の言葉に「その通りだ」といつの間にか、 心の中で叫んでいる自分がいました。今の私たちの平和な暮らしは、この人たちの犠牲の上にあるのだと思います。
 私はまだ中学生です。私にできることも、よく分かりません。できたとしても、それは、ごくごく小さなことだと思います。 でも、この人たちの尊い犠牲だけは、決して、無駄にしては、いけないのではないでしょうか。あの日「行ってきます」の言葉を最後に、二度とわが家に帰れなかった人たち のためにも、何でもない朝のあいさつからゆっくりと、将来、私たちができることを考えていきたいと思います。  
 「行ってきます」「気を付けて行くんよ」と笑顔で言える日が、いつまでもいつまでも、続くことを祈って。

街頭署名活動

倉敷9条の会では、偶数月の9日に倉敷駅前で署名活動を続けています。12月は太平洋戦争の開戦にちなんで8日に行いました。 召集令状を赤紙にコピーし、配布しました。若い人からお年寄りまで過去の現実に思いを馳せていただき、多数の署名をいただきました。2月は 9日に行う予定です。
私たちは「戦争だけはイヤ」「九条は世界の宝」と訴え続けています。あなたも一度マイクを握ってみませんか?



参 加 報 告
「九条の会」全県交流会 &全国交流集会       石井 和子

岡山県九条の会全県交流会 

 11月22日開催。参加者は16組織、27人と少数でしたが、交流の場には、青年の九条の会も初参加するなど、多彩な報告が相次ぎ充実した集会となりました。
 冒頭、参加者の中で最年長(83歳)である「津山九条の会」代表・河井兵太氏が、二度と戦争する時代にしてはならないと開会挨拶。経過報告では、 翌々日開かれる「全国交流会」に向けて「県内九条の会」チェックを名簿と照合の結果、当日現在の県内九条の会の数は197としめされました。これまで事務局が把握している 06年からの各「九条の会」の活動報告一覧表が配られ、修正と付加及びそれ以前の活動記録の未報告分を事務局に提出するよう要請がありました。
交流会では、手書ニュース作成(備前)。月1回ニュースと映画会、署名は街頭ではなく訪問で3千以上(平井)。9月9日9時市内7寺で打鐘行動、メーデーで決議案の提唱(新見)。 大きな行事で、リーフレットに有料広告することで年間の活動費をゆうに調達(赤磐)。など多彩な取り組みが出されました。最後に注目を浴びたのは、6月13日結成した青年九条の会 (キューピーズ)で、月末には学習会を開催皆さんと力を合わせると表明し喝采を博しました。なおオブ参加からはブックレット岩間一雄著「憲法九条講座」と、県内九条の会の動きを 連載する雑誌「人権21」の紹介(研究所)、自衛隊海外派兵阻止訴訟問題の12・8集会案内(平和委員会)がありました。
 協議では、今後の課題として事務局から分野別の会や、同一地域の会での、相互交流・連携の取り組みや、とりわけ、20を超える岡山市では県九条の会の事務局を受ける努力を、と 要請がありました。また県レベルでは、夏以降大きなイベント(たとえば藤本義一氏とフォークソンガーきたがわてつ氏)の計画を紹介、前回の澤地久枝氏のように、実行委員会形式で、 準備を進めることが了解されました。

「9条の会」第3回全国交流集会 

 11月24日、東京・日本教育会館で開催されました。参加者は北海道から沖縄まで926人、岡山からは3会・3人(医師・歯科医師の会、倉敷九条の会、県9条の会)の 参加でした。  冒頭開会の挨拶で小森陽一事務局長は、この一年全国各地で493の九条の会が増え、7294になったと報告!拍手喝采!!!でした。  
 呼びかけ人四人の挨拶から
〇大江健三郎氏
  教科書裁判勝利の感想の後、地方に出かけ個人の規範として「九条の会」に参加する多数の人に(中には一家4代に渡る人も)出会い、確信に満ちた規範を感じた。 平和主義の個人的な規範としての伝統が、国家の伝統になれば、日本が国際的に平和主義を確立する大きな手がかりになる。
〇奥平康弘氏 
田母神論文問題でマスメディアははしゃいだ。政府は再防止に努めると約束したが、来年の改憲手続法で国民投票運動に公務員・教員を規制することと結ぶ検討なら問題だ。
〇澤地久枝氏
  全国で九条の会参加者が確実に増え質的に広がった。次の世代、その次の世代へ繋がることでめったに崩されない。当面九条と二十五条を一つに立ち向かうときだ。
〇鶴見俊輔氏
  今の国会議員や大臣の「戦後」イメージは、朝鮮戦争を杖に経済復興した日本だとし、原爆や大都市爆撃当時の日本人の感情から出発していない。田母神発言はまさにその表れ。
  〇特別報告 谷山博史氏(日本国際ボランティア代表理事)
「対テロ戦争」は対話の否定。民間人多数を犠牲する空爆から、現地人は「外国人部隊は敵」「自爆は自衛のため」という認識にある。九条をもつ日本こそ戦争によらない紛争の解決という 点で国際貢献できる。
*全体会での報告、八分科会での各地の多彩な取り組みが報告され、互いに学びあえて、元気をもらいました。

「戦中、戦後の青春」
〜昭和史を丸ごと生きて〜 
            第四回総会・記念講演より
高田 雅之

○ 昭和という時代と満州

 まず昭和という年号について、ご存じだと思いますが、中国の古い書物に書経というのがありますが、そこに「百姓昭明」 「万邦協和」という言葉があります。これは、多くの人が 幸せに暮らし、全ての国が仲良くするという意味ですが、この言葉から、昭和と名付けたわけです。そのような世の中になる ように願ったわけですけど、実はそうではなかった。 昭和は戦争に明け暮れた時代に終ったわけです。
 私が生まれたのは昭和5年(1930年)です。前年(1929年)の10月24日は暗黒の木曜日と呼ばれたアメリカ発の 大恐慌が始まり、翌年(1931年)には満州事変が 起こっています。そんな時代に私は生まれたわけです。
 満州事変は昭和6年9月18日、柳条湖というところで南満州鉄道が爆破され、これが発端で戦争になりました。関東軍は瞬 く間に東北三省を席巻し、昭和7年3月1日に満州国を 建国します。その翌年には岡山からも歩兵第10連隊が出兵。1年かかって熱河省を制圧し満州国に編入しました。
 関東軍というのは満州に駐屯する日本軍のことです。遼東半島の先端あたりを関東州と呼んでいて、そこに満鉄の本社があ りました。日露戦争で得た南満州鉄道の権益を守る兵隊と して関東軍を置いていたのです。その軍隊が戦争の主役として満州国をつくり上げたわけです。清王朝のラストエンペラーを 国王にしますが、国を動かしているのは陸軍の軍人で、 やりたい放題です。これが問題になり、リットン調査団が国連から派遣されてくるわけですが、満州国は傀儡政権で侵略ではな いかとの報告に、日本はついに国際連盟から脱退します。 その時の外務大臣は松岡洋右岸信介の従兄弟です。岸信介の孫が安倍晋三です。この一家は満州と非常に深い関係をもって のし上がってきた政治家なのです。
 昭和9年に歩兵第10連隊がもどって来ます。私の叔父もその中にいました。満州のことを一畳台に座って父に話していたことをかすかに覚えています。


○ 2・26事件の頃
   私が小学校に入学するのは昭和11年。この年の2月26日に「2・26事件」が起こります。天皇によって戒厳令がしかれ、事件を起した青年将校たちは反乱軍になるわけです。 私の家では朝日新聞をとっていました。兵隊たちの写真が一面に並んでいるのを見て、父に聞くと、「これは悪いことをした人だから載るんだ」というようなことを言っておりました。
 小学校に入ると、国語の本の三番目に、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」というのがあり、おもちゃの木彫りの兵隊が鉄砲を担いで歩いているのがありました。このように 幼い時から兵隊を賛美する剥き出しの国家主義が教科書に出てくる時代でした。
小学校2年の時に支那事変が始まります。7月7日、蘆溝橋で演習をしていた日本の部隊が中国軍に発砲して日中全面戦争に発展するのです。
田舎の子どもたちは、公会堂に集まって戦果を聞きました。その頃中国各地に攻め入っていましたから、地名なども新聞や地図を開いて教えてもらいました。その度、「日本が勝った。 支那負けた」と血湧き肉踊る思いでした。戦争はどういうものかは知らないまま、戦争こそ日本人として当然やるものだ。平和のために正義の戦争をやっていると思ったのです。
 〜東洋平和のためならば。何で命が惜しかろう……という軍歌がどんどん歌われていました。
 そんな時代に私たちは「兵隊さんがんばれ、ばんざい!」という勉強ばかりしていました。「兵隊さんありがとう」という歌があります。
 〜きょうも元気で学校に行けるのは兵隊さんのおかげです……と歌っていました。
私は浅口郡の里庄町にいました。線路近くに家がありましたから、友だちといっしょに中国大陸に向かう兵隊さんを見送りました。客車の中から兵隊さんは日の丸の旗をふって くれます。貨車には軍用の馬も載っていて、世話をする兵隊も日の丸をふっている。その人たちがキャラメルを投げたりする。それを貰って「兵隊さんばんざい、ばんざい」と言って 喜ぶ日がつづきました。小学校の3、4年生のころです。
 昭和14年には岡山人で忘れてはならないのは、平沼騏一郎が総理大臣になります。これは大変なニュースだった。「平沼男に大命降下」という記事が新聞に大きく載っていました。 小学生の私は、平沼さんという人は男だから「男」と書いているのか、と母親に尋ねると笑われました。男というのは男爵のことで偉い人のことだと教えてくれました。
 平沼という人で忘れてならないのは、明治43年の大逆事件です。その時の大審院長で、今でいうと最高裁長官。幸徳秋水らに死刑を言い渡すのです。その平沼が総理大臣になって 日中戦争の推進に一役買うわけです。
 平沼という人は運のない人で、その間にノモンハン事件を起こしてしまう。昭和14年5月のことです。ノモンハンは満州と当時の外蒙古との境界線。ここで国境紛争が起こり、 ソ連軍と関東軍が衝突します。ソ連軍の機甲部隊のものすごい数の戦車が、地平線を埋め尽くすほどにやってくる。日本軍は散々にやられます。その時の総理大臣が平沼なのです。
 そうこうするうちに、今度は昭和14年の8月にドイツとソ連が不可侵条約を結んでしまう。日本はソ連を敵だとして、関東軍も増強して対ソ戦を考えていました。ドイツと日本は 日独伊の三国同盟を結んで協力し合っている。そのドイツがソ連と同盟を結んでは困る。日本はどうするのか? ついに平沼は内閣を投げ出します。1月4日に誕生した平沼内閣は、 8月の終わりには辞めざるを得なくなった。この時、「欧州情勢は複雑怪奇」だという言葉を残して流行語になったものです。
14年にもう一つ忘れてならないことは、大干ばつがあったこと。梅雨にほとんど雨が降らなかった。5月頃から降らなかったのです。岡山県の水田の3分の1が作付け不能、 あるいは半分くらいしか米ができないという事態になったのです。
 私の家は農家で、父は前の年から召集を受けて兵隊にとられ家にいませんでした。農作業は近所の人や知り合いが、出征兵士の家として奉仕をしてくれますが、田んぼに水がなくては 米は出来ません。どうやって乗り切ったか、子どもでしたからよく分かりませんが、覚えているのは、私は水の大切さを作文に書いて、それが入選して賞状を貰ったことがありました。


○ 紀元二千六百年と太平洋戦争
   昭和15年、私が5年生の時は、紀元2600年の年でした。神武天皇が日本の国を始めたのは西暦より660年古い。それはいつ誰が決めたのかというと、江戸時代の国学者の ようですが、何の根拠もありません。世界中で2600年も続いた天皇一つの血筋でつづいた例はないとして、記念式典を11月10日から日本国中でやるんです。
 〜金鵄輝く日本の……という「紀元二千六百年の歌」や、〜見よ東海の空空けて……という「愛国行進曲」が歌われました。
 なぜそういう歌を流行らせたかというと、要するに、日本は優れた民族である。2600年の歴史が皇統連綿としてつづいてきた。これを「八紘一宇」(はっこういちう)という言葉で、 天皇の権威によって世界を一つの家にする、つまり大東亜共栄圏という思想を振りまく訳です。その元が「愛国行進曲」であり、「二千六百年の歌」だったのです。こうして、国民精神の 作興をやり、挙国一致の体制で次なる世界大戦、太平洋戦争へと向かっていったのです。
 昭和16年には小学校を国民学校に改めます。いよいよ剥き出しの軍国教育になっていきます。「ススメ ススメ ヘイタイススメ」というのは、おもちゃの兵隊が鉄砲を担いで いますが、もうそういう時代ではない。日本を挙げて戦争につながってくる時代になる訳です。 昭和16年は戦争の準備をいろいろしています。徴兵検査で甲種合格と第1第2乙種までは召集令状が来ていましたが、丙種でも兵役につくように法律を改正しています。それだけ 兵隊が足らなくなっていました。
 その他、中学生の帽子が丸帽から戦闘帽になったのもこの年。戦闘帽はカーキ色の帽子で鉄兜をかぶるときその下にかぶるもの。そういう風にすべてが戦時体制になっていきます。 中学生の鞄も肩に掛けるものから軍隊と同じように背嚢になりました。陸軍の兵隊のようにゲートルを巻いて学校に行くようになります。ちょっと不良がかった者は、ゲートルを短く 巻いて紐をたらしたりして、はかない抵抗をしていました。
 このように国中が軍国一色に染められて行きます。パーマネントもだめで、「パーマネントは敵だ」といういたずら書きが街角で見られるようになります。天然パーマの女性は肩身の 狭い思いをするのです。
そうこうするうちに昭和16年12月8日を迎えることになる。「ニイタカヤマノボレ」という暗号電信が太平洋各地に点在している日本の艦船に届き、いよいよ太平洋戦争が始まる わけです。
 真珠湾では特殊潜行艇がアメリカへ突っ込んで行く。空からは飛行機で太平洋艦隊を襲って米英相手の戦争の火蓋が切られます。同じ時間に陸軍の兵隊を乗せた船がマレー半島に 上陸して、銀輪部隊がシンガポールへ自転車をこいで行く。
 その時の司令官は山下奉文。イギリス軍と戦いながら多くの中国人を殺します。マレー半島、シンガポールには華僑が多く、抗日運動が非常に盛んだったのです。日本軍を良く 思わない者がいると、否応なしに殺戮した。その数は数十万人。昭和13年の南京と同じように大虐殺をやってのけたのです。これは日本内地ではほとんど知らされませんでした。 当時軍艦マーチが鳴り響くと、大本営発表がありました。戦果が発表されるたび、「勝った、勝った」と喜んだものです。ところがいつまでもそうはいかなくなった。
 ――その後の戦局(南方での戦果と米英軍の反撃。日本軍の玉砕、大本営発表など)については紙面の都合で省略します――
 

○ 海軍兵学校入学と敗戦
 昭和19年の6月頃から軍需工場への学徒動員が始まりました。私は三菱電機で爆弾投下機を作っていました。全国の中学校にも動員令が出されていました。 その年、私は海軍兵学校の試験を受けました。二次、三次試験は江田島でありました。そして、昭和20年3月に長崎の佐世保郊外にある海軍兵学校針尾分校に入学しました。
 その後、本土決戦になるとそこが危なくなるとして山口県の防府にある海軍兵学校防府分校に移ります。ここで終戦を迎えました。空襲警報が鳴ると防空壕に避難するのですが、 敵機はいつ来るかは分かりません。風呂に入っている時は素っ裸で防空壕へ走ったものです。白いものは目立つので、下着は持って走りました
。  防空壕の中では食べ物の話ばかりしでした。教官もいないので、「アンパンが欲しい」「アイスクリームが食べたい」などと、好き放題のことを言っていました。ミルクセーキを 食べたいという者がいましたが、田舎者の私はそれがどんな食べ物なのか知りませんでした。
 そんな或る時、焼夷弾が落ちて煙りが上がっています。すると一人がみんなの制止を振り切って走って行き、梁に掛けていたみんなの軍帽を持って帰って来ました。一番大事な ものだと思ったのでしょう。
 兵学校の隣に陸軍の飛行場がありました。戦闘機がたくさん並んでいました。少年時代、飛行機オタクだった私は、三式戦闘機・ 「飛燕」であることかすぐ分かりました。この飛行機は水冷式のエンジンで、当時日本機では珍しいものです。私は外出の時、 級友とよく見に行ったものです。搭乗員が応対してくれました。日の丸を肩と胸に付けていました。特攻出撃の少年兵です。 年齢は私たちとほとんど変わりません。「自分は何月何日に出撃することになっています」という少年たち。目の前で見た彼ら の姿は生涯忘れられません。みんな真面目でした。
 米軍は兵学校ではなく隣の飛行場を狙います。飛行機に乗ろうとした時グラマンが来ました。銃撃されると弾が飛び散って 助けにいけません。最後にはガソリンタンクに火が付き 大爆発をしてしまう。私たちは隣からただ見ているだけでした……。あの光景は未だに忘れられません。
 8月15日、終戦です。放送があってラジオの前に並びましたが、スピーカーを通した音がガーガー鳴っているだけで何を言っているのか分かりません。 終わると、教頭の木村昌福少将が「玉音朗々」と言いました。そして「日本はソ連が参戦したが最後まで戦えと言われたに違いない」と言ったので、ああそうかと思いました。 実は日本は負けたのだということが夕方にわかって、それから大変でした。機密書類を中庭で毎晩毎晩焼いていました。
 江田島より帆走ヨットで帰ってきた一号生徒たちは、「貴様ら、終戦で帰れると思ったら大きな間違いだ。俺たちは休暇で帰っただけだ」と言って大声を張り上げていました。 私たちが貨物列車で郷里に引き上げてきたのは、8月24日のことでした。
 この貨物列車の旅で見た情景で今も忘れられないのは、被爆した人たちの遺体が積み上げられた沢山の小山から、深夜に立ちのぼる青白い燐光のことです。被爆から十数日経って いるというのに、ここかしこに並ぶ黒い小山の斜面を這い登る青白い炎が、川面に映えて、鬼気迫るものがありました。作家・早坂暁が「この世のものとは思えない恐ろしさ」と描写した 通りの情景でした。その早坂は海軍兵学校の同期生で、同じ貨物列車で復員したのです。
 

○ 戦後の道
 復員翌年の1946年秋、同郷の先輩で海軍兵学校74期生だったS氏がわが家を訪ねて来て「復員船『葛城』に乗らないか」と誘いました。その復員船は、日本海軍の唯一残った 軍艦で、南方に取り残されている兵士の復員業務に当たっており、ジャワ島から歌手藤山一郎を乗せて帰ったのも、その船ということでした。しかし、私はその船の乗組員になることを 断わりました。「今更、船乗りなんて」という気がしたからです。S氏は、復員船の乗組みの仕事が終ってから、間もなく発足した海上自衛隊の隊員に加わり、幹部に昇進したと いうことです。その後、私は旧制山口経専(山口大学経済学部)を経て、1952年山陽新聞社編集局に入りました。そして社会部、ラジオテレビ部、支局勤務、出版局などを経験して、 1987年停年退職しました。
 ラジオテレビ部では、山陽放送に新設した「山陽TVニュース」のニュースデスク、短編映画プロデューサー、出版局では図書出版、雑誌編集を担当するなど新聞だけでなく他の メディアの制作を経験できたことも、得難いことだったと思います。
 新聞社時代のことを語ろうとすれば、いくら時間があっても語り尽くせませんが、どうしても触れておきたいのは、六〇年安保の翌年にあった山陽新聞ストライキに始まる 山陽労組員に対する十一年間の大弾圧のことです。この十一年間の組織攻撃、反撃の数々は日本中のマスコミ経営者、労働者に大きな教訓を残しましたが、 詳細については後日にゆずります。



「平和カルタと作品展」のご案内
 〇日  時  2月19日(木)〜2月22日(日)
  〇場  所   倉敷公民館・展示室にて
 〇展示時間  10時〜17時(2月22日は15時まで)
 〇展示作品  平和カルタの他、「絵画」「写真」「書」「書籍」など
*出展作品募集しています
  平和カルタの応募は〆切ましたが、例年通り、絵画、写真、書などお寄せ下さい。
  〇〆 切   2月15日までに出展内容をお知らせください。
        作品は2月18日(木)の10時から14時に直接、倉敷公民館に搬入下さい。
〇連絡先   710-0043 倉敷市羽島368-2石井和子 FAX 086-424-9764


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