会報No.4 06,7,25 |
「倉敷9条の会」 |
六月十日(土)倉敷公民館において東京芸術大学四年村上彩子(三九)=福山市神辺町出身=ソプラノコンサート「祈りとこしえに」(倉敷9条の会主催)が開かれた。 コンサートでは「この道」や「椰子の実」などの昔懐かしい日本の歌曲と岡山にちなみ竹久夢二の曲も披露。さらに神辺町出身の童謡作家葛原しげるの「とんび」と同氏の二男で戦没音楽生葛原守さんの遺作「犬と雲」など12曲を熱唱した。澄みきったソプラノの響きと、遺作との運命的な出会いや自らの人生を振り返った感動のトークに、会場を訪れた130人の聴衆から温かい拍手が送られた。
村上さんは大阪音楽大卒業後、美術品のコージネ―ターとして7年間会社勤めをしていたが、音楽家への道があきらめきれず三十歳の時一念発起して東京芸術大学を目指した。しかし、道のりは険しかった。親の援助もなく、アルバイトが終わってから深夜の勉強―歌以外は独学だった。家賃を滞納しながら、ぎりぎりの生活を余儀なくされる。 そして、4回目の失敗ですべてが嫌になる。失意のどん底で生きる望みさえ失った村上さんは、偶然知った長野県上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」を訪れる。そこで志半ばで散った画学生の絵に衝撃を受ける。 「もっと生きたかった。あと五分、あと十分この絵を描かせて欲しい……」 魂の叫びに、「お前はそれでも生きていられるんだぞ」と頭を殴られた気がしたという。場所柄もわきまえず絵の前で号泣する村上さん。その時、死なないでいよう。必死で勉強しようと心に誓った。 「無言館」で夢を追う勇気をもらった村上さんは、自分自身が変らなければと思った。意識的に明るい自分を演じた。芸大に行きたいという思いを自分の中だけでなく、人にも話せるようになった。すると不思議なことに今まで出なかった声が出るようになり、カチリ、カチリと歯車が噛み合うように、いろんなことがうまくいくようになった。 それから2年後、東京芸大に合格。入学式の感激は生涯忘れられないものとなった。 「上野の桜は喜んで迎えてくれた。すべての桜が自分のために咲いてくれていると思うと、止めどなく涙があふれ、たちまち桜は見えなくなった」と喜びをふりかえった。
入学後、「戦没画学生の慰霊のコンサートを開きたい」と思うようになった村上さん。しかし、なかなか実現できなかった。そんな折り、戦後六十年の昨年、全国で「無言館」の移動展示会が開かれることになった。尾道でも開催することを知った村上さんは、早速館長さんとコンタクトを取る。「是非やりましょう」の一報を受けたのが八月六日、始めての打合せが八月十五日にセットされた。この偶然の一致に、「戦争で帰らぬ人となった多くの学生や兵士たちが、私に歌えと言ってくれているように思った」という。 村上さんは「無言館」にならって、恩返しの気持から戦没音楽生探しを始めていた。しかし、殆ど手がかりはなかった。諦めかけていた時、学事課の先生から手渡された資料に一枚の写真があった。ピアノ科の学生の写真だった。希望に燃えた若者たちの顔、その中に中田喜直先生と一緒にあった葛原守の名前を発見。「もしや…」その時、村上さんは鳥肌が立ったという。葛原という珍しい姓。「夕日」などで知られる同郷の童謡作家葛原しげる先生にゆかりのある人ではないだろうか。咄嗟にそう思ったのだ。村上さんは資料を手繰っていった。間違いはなかった。守さんは、葛原しげるさんの二男だった。奇跡だと思った。
遺族を調べると、東京武蔵野市に二つ年下の安子さんがいることが分かった。「六十年も経って神辺町から訪ねて来る人があろうとは……」 訪問すると、驚きを隠せない安子さん。「守兄が生きていたら喜んでくれるだろう」と、ずっと仕舞ったままの遺品を開いていく。それは、安子さんの胸をえぐるようで辛い仕事だった。 守さんは昭和十八年東京音楽学校を繰り上げ卒業。昭和二十年四月に台北で戦病死していた。遺品の一つ一つを見ながら、「とても繊細で優しい兄さんだった。父の詩に曲を付けてもらいたかった」と、安子さんはふりかえる。守さんは葛原家にとって希望の星だった。 「戦時中、私はいつもマーちゃん(守)と一緒に一つの電灯の下で向かい合って勉強していました。昭和十九年の春のこと、明日が出発という日、いつも静かで無口な兄が『お前はいいなぁ』ってつぶやいたんです」 安子さんはそれ以来六十年、兄のことがあまりにも可哀想で誰にも話すことができなかった。安子さんの悲しみは何年たっても癒えることはなかったのだ。こうして遺品の中から守さんの遺作「犬と雲」など3曲を発見した村上さんは、運命的な出会いを強く感じた。「六十年間この曲は私を待っていてくれたのだ…」どれも素晴らしい感性にあふれた作品だった。音域も村上さんにピッタリ合っていた。生きていたら親友だった中田喜直先生とおなじように日本を代表する音楽家になっていただろう。 村上さんは上野の奏楽堂の前を通るたび「ここで卒業演奏をした若者達が戦場へ送られて行ったのだ」と思いを新にする。「戦争というものはかくも惨たらしいものです。彼等に代わって精一杯勉強して良い音楽家になりたい。私は歌の道に帰って来ることができた。私の歌を平和のために使って欲しい。同じ芸術家を目指すものとして平和のために役立ちたいのです」村上さんはコンサートの最後にそう締めくくった。
このたびは村上彩子女史のご縁でお便りをいただき、倉敷9条の会のことを知り、アピールを拝見することができましたことは本当にありがたく思っています。私は二人の兄が戦死したことから、戦争を憎む気持だけで戦後六十年をすごし、いつの間にか八十歳を越えてしまいました。あと余命はほんの何年かと存じますが、生きている限り、戦争反対を訴えてまいります。時節柄世の中さわがしく、また季節的にもうっとうしい日がつづきます。どうぞ御身を大切にご活躍ください。(抜粋) 戦没音楽生、葛原守遺作展(当日倉敷公民館で開かれました)
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