永瀬隆さんの鬼気迫る講演
「倉敷9条の会」講演と朗読の集い

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 倉敷9条の会主催の「講演と朗読の集い」、年末も押し迫った2005年12月11日、倉敷公民館で開かれ、100人あまりが参加しました。メインの永瀬隆さんの講演「泰緬鉄道の真実」はまさに鬼気迫る講演となり、参加者一同に深い感銘を与えるものとなりました。

「馬を洗って」 児童文学作家八束さんの朗読

  会はまず、倉敷9条の会呼びかけ人の一人でもある児童文学作家八束澄子さんの朗読からはじまりました。北海道の同じ児童文学作家加藤多一さんの作品で、「不吉」と言われた馬と、一家の物語。しっとりとした朗読は、会場を魅了して余りあるものがありました。北海道の厳しい自然と、人と馬の生命の交流・・・。しんとなったところでの、永瀬さんの登場へと続きます。

 余談ですが、倉敷9条の会の呼びかけ人や世話人には、倉敷市文化連盟会長の室山貴義さんをはじめ、画家や文学者などいわゆる文化人がたくさん名を連ねておられます。「文化の町倉敷」ならではの9条の会なのです。

  

「人の嫌がる軍隊へ、志願で・・・」鬼気迫って永瀬さん

   冒頭で、永瀬さんの今を紹介したビデオが流されました。「全国的にも意義があり、また9条改憲がたくらまれている今だこその永瀬さん」。一口に「戦時中の犠牲者への慰霊」と言っても、小泉総理のように、当時の戦争を正当化しての靖国参拝もあれば、永瀬さんのように当時の捕虜や現地労働者、そしていまだに屍をさらす元日本兵への慰霊もあるのだと、あらためて気付かせていただいた、まさに鬼気迫る講演ではありました。

  

・戦争は儲かるんです

 「ひとつとせ〜、人の嫌がる軍隊へ〜、志願で出てくるバカもいる〜・・・。と言うとおりに入った私の、つたない体験をお話します。」自嘲的な詩で始まった永瀬さんのお話です。

 「世界で今、およそこんなに平和な国はないでしょう。これは憲法9条のおかげです。でもなぜ憲法改悪か、それは戦争は儲かるんですよ・・・」

 「私のつたない経験から申し上げますと、あの泰緬鉄道、そう、その鉄道建設一つとっても、私は友人の信じられない話を記憶しています。彼の当時の隊長が、上部との会話で『枕木一本でそんなに儲けるのか?』と驚きまた怒っているのを直接耳にしたそうです。」あの戦争で、巨額の富を蓄積しようとした人々がいたようなのです。

・岡山市の人口に匹敵する人が、海の藻屑に

 永瀬さんの青春時代、「戦争が始まってまもなくの渋谷の町に、学生たちみんなで出て行ったんです。一人が飲みすぎてちょっと吐いたところ、特高(特別高等警察?)に見咎められて、10数人みんなが渋谷警察に連れて行かれて、説教をくらったいました。そして翌日の新聞には「渋谷で学生狩り」なんて表現で出たんです。みなさん、こんなことが行われていたんです。

 そのときの友人の一人は、その後軍隊に取られて、輸送船団で南方に送られる途中、アメリカの潜水艦に沈められました。今の岡山市の人口に匹敵する50万人が、そうして今も海の下に沈められたままなんです。ビルマのインパール作戦でも、当時従軍した日本兵30万人のうち半分は帰っていない。日本政府はそういう戦後処理を何もしていないんです。白木の箱にただの砂を入れて遺族に渡し、靖国に祀ったと言って、実際の遺骨の収集はおざなりにしかしていません。」

 永瀬さんのお話は、次第に聞くものを引き入れないではおられません。

・シンガポールからの捕虜輸送

 「私は無事に軍の通訳として採用されて南方へ船で送られました。最初はシンガポールでした。そこから英軍の捕虜をタイの南部に送るのに同行することになったのです。『避暑地に行く』なんてごまかして鉄道貨車に詰め込んで1週間かけて移動させました。ところがタイに着くと、黒い鳥が付きまとうんですね。聞くと『ハゲワシ』で、死体に群がる鳥だとか。ぞっとしました。そして鉄道に沿って捕虜を歩かせて(建設現場に)行くんです。

 現地の捕虜収容所は、何と屋根が無いんです。そこへみんな寝かされている。私も「これが天皇陛下の軍隊のすることか。」とびっくりしました。初めて日本軍への疑念を持ちました。私はカンチャナブリの憲兵隊の通訳として、周辺の捕虜収容所を憲兵と一緒に回り、情報を取っていました。さっきの番組で拷問の場面が出ましたが、あんなものじゃあありません。あまりひどいので、「僕はこんなことをするために軍隊に志願したんだろうか」と何回も思いました。

・戦争が終わって

 戦争が終わって、私は通訳だったということで、戦犯名簿からも外され、今度は連合軍側で現地の地理に詳しい通訳として働かされました。そうして現地の捕虜の墓をたくさん捜索しました。現地へ行ってアーと思いました。何重にも木の粗末な十字架が並んでいるんですね。日本軍は自分の戦死者の墓を作らなかったが、彼らはちゃんと作っていたんです。そして、ある墓を掘ったとき、死者が一斗缶にコールタールが詰まったものを抱いていたんです。その中から出てきたのは、このあたり一帯に埋められた捕虜たちの氏名と、当時の日本軍の担当者の名簿です。まさに戦犯名簿でした。

 白人たちは大変にいいお墓を現地に作っています。今も。ところが日本は現地に墓を作らない。みんな草生す屍ですよ。現地では「日本兵があそこに○人、あそこに○○人、死体がある」というところだらけです。「死んで虜囚の辱めを受けない」という東條英機という首相が決めた戦陣訓どおりに集団自決した兵がたくさん埋められている。私はできるだけ供養塔をあちこちに建てました。でも日本政府は何もしない。

 黄金の三角地帯というところがあります。現地の人が調べたら、7,000人の日本兵の遺骨が残っていた。私が外務省に言ったら「もしそういうことをタイ人に言ったら、犬や猫の骨を持ってきて、金を取ろうとするから・・」と言うんです。これはおかしい。逆ですよね。

・白骨街道と言われるところだらけ

 本当に何万という遺体が、まだタイにはあるんです。白骨街道と言われる道がたくさんあります。ある兵がやっとたどり着いて木にもたれて事切れてしまう。するとシロアリがザーッと襲い、雨に打たれてたちまち白骨が銃を抱いた姿になるんです。そして現地の人たちが埋葬する。日本政府はそういうところでの戦後処理を何もしていないんです。何千体の遺体があるところで、ほんの数遺骨を持って帰る程度です。

 日本兵は世界に唯一弁当を持たないで戦争に行くんです。食べ物は現地調達。それは略奪です。抵抗するものを殺す。たくさんの悲劇が生まれました。戦陣訓で捕虜になるより死をということで死んでいった兵たちのこととともに、日本の天皇制軍隊を悪くした元凶です。

 今の政治家たちはみんな当時を知らない人ばかりになってしまいました。泰緬鉄道だけでも、現地から調達した労働者は、マレーシア、ビルマ、インドネシアで35万人にもなります。帰ったのは半分です。そうして戦争で大量の人を殺している。

・憲法を変えて、またもや戦争をしようと。

 次から次へと世の中が悪くなっています。今皇室のお祝い事をTVで見ると、そのむこうにタイ、ビルマの当時のことがオーバーラップします。日本の軍隊は天皇の私兵だったんです。その責任を取っておられない。それが靖国神社にまいってはばからない風潮を生んでいる。どんどん世界から孤立しています。戦後に日本兵が帰還するとき、タイ政府はみんなに米と砂糖を配ってくれました。どこに自国を占領に来た兵たち、それも敗残兵たちに良くするくにがあるでしょうか?。

 「ひとつとせ・・・」の一人の私の実感を申し上げました。あと3週間で数えの89歳になります。私は泰緬の後始末をするために生まれてきたのかなーと思っています。」(2005,12)

 

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