文化の町倉敷には憲法9条がよく似合う〜倉敷9条の会

 トップページ 

倉敷9条の会  会報No.17 春季号
 「平和カルタ展」と「中村昭夫遺作展」開く
 2月19日から4日間、倉敷公民館展示室において恒例の作品展を開催しました。「平和カルタ展」は、例年の年賀状展に変わるもので、家族そろって憲法に守られている平和なくらしを実感し、護憲について話し合う機会になることを願って企画したものです。今回は先に募集した「読札」の一次選考結果を展示しました(活動報告参照)。「中村昭夫遺作展」は、当会の呼びかけ人でもありました中村さんの一周忌にあたって計画しました。ご遺族のご厚意により、中国山地冬景色(苫田郡鏡野町)など8点の作品を展示させていただきました。山陽新聞の取材もあり、期間中にたくさんの来館者が訪れ故人を偲んでおられました。その他の作品は次ぎの方々です。
【色紙】室山貴義【絵画】阿部省三▽江草昭治▽織井ふじ枝▽川崎泰子▽藤原ともえ▽秋山啓子▽相馬潤子▽門井恕子▽奥田さが子▽和田堯子【写真】大森久雄▽石井和子【絵手紙】坂田典子ほか【色紙】長谷川清(遺作)【絵画】馬渕ゑん(遺作)
期間中の入場者は281名でした。

コラム  釜中の魚

ご承知の通り、クジラは魚ではない。進化の過程で海にいるだけである。この常識を覆す珍事が起きた。クジラが原子力で泳ぐ核搭載の潜水艦に変身し、日本の領海に深く静かに潜行してきたのである。空想科学小説の一節ではない、実際にあった話だ。海上自衛隊のイージス艦は音波を発して追跡を開始した。ソナーの反応を見ても潜水艦に間違いはない。某国の謀略か、諜報活動か? 関係者は色めき立ったことだろう。
このニュースはテレビでも流れた。ところが続報は梨の礫。不審に思っていると、数日後の新聞に「潜水艦はクジラ?」の見出し。クジラを潜水艦と見誤った公算が大きいと報じていた。ただ、クジラと断定できる証拠もなく、結論は迷宮入りだという。思わぬ顛末に驚いていると、ニタリクジラが尾ヒレをふって悠然と大海原を回遊していく姿が脳裏をよぎったものである。
人間とは窮屈な生き物だ。縄張りを作り、それをめぐる紛争が絶えない。陸は勿論、海や空や宇宙までも自分のものだと喧しい。冷戦下の日本で、戦闘機のスクランブル発進は年間千回近くあったという。冷戦後も二百回前後はあるらしい。クジラならぬ領海侵犯も「推して知るべし」である。平和の陰で、一触即発の危機は茶飯事なのだ。そこまでしてやらなければならない国防・国益とは何だろう。
今や人間は武装平和の危うさの中でしか生きられなくなった。より強力な兵器を持つことで安心を得ようとする。巨費を投じて武器を調え、あらゆる実戦を重ねている。
しかし最新鋭のイージス艦をしてこの有様だ。フールプルーフどころか、予期せぬものが不測の事態を引起しかねない。核のボタンも然る可しだろう。人類の進化は既に止まり、絶滅危惧種の仲間入りをしているとすれば、ヒトは未だに「魚の釜中に遊ぶが如し」の体たらくである。それを知ってか知らずか、つい先日も北朝鮮はミサイルのスイッチを押してみせた。

寄稿
二つの祖国
中国残留婦人を祖母として
寧(ニン) 梦男(モンナン)

私は今まで、世界から兵器が無くなることを考えたこともなく、あるのが当たり前と思っていました。このたび大学受験をサポートして下さった先生から、日本の憲法9条の話を聞きびっくりしました。
日本は、戦後六十四年間、他の国と戦争をしていなく、また一人も殺していないことを知ったからです。日本は先進国でありながら、そんな国が戦後一度も戦争をしていないことに驚いたのです。先進国と言われる大国ほど戦争をしている現実があるからです。
私の祖母は中国残留婦人です。祖母は十代の頃に中国に渡り、写真会社に勤めていました。戦争が終わり、ほとんどの日本人は日本に帰りました。しかし、祖母たちは取り残されました。私の身近にも、祖母と同じような境遇にあった人や「中国残留孤児」と言われている人たちがいます。幸いに祖母は、中国人の祖父と結婚し、五人の子どもを生み育て、五十年近くを中国で過ごしました。私が小学校一年生の時に、祖母と両親と一緒に日本へ戻ってきました。私は二ヶ月間だけ中国の小学校に通い、その後日本の学校に行きました。国は違っていても、先生や友だち、学校での生活には同じようなところがたくさんあると感じています。 幼かった私は、すぐに日本の環境にも慣れ、多くの人たちの援助を得て、日本語も話せるようになり、家では中国語、学校では日本語を使う生活をするようになりました。中国生まれで、中国籍をもっている私は、今では日本語が母国語となっています。自分には二つの祖国があるという意識があり、この二つの国のことがとても気になる時があります。考えて見れば、この二つの国には長い交流の歴史とともに不幸な歴史があるからです。今もなお、その痛みに苦しんでいる人たちがいます。それは、戦争を体験した祖母たちにしかわからない痛みかもしれません。祖母に戦争のことを聞くと、口は重く、多くを語りたくないようです。このような悲しみや苦しみを二度と繰り返さないように、私たちはしていかなければなりません。
私の将来の夢は、中国と日本との架け橋となることです。辛い過去があるからこそ、この二つの国が同じアジアの人間として、互いに助け合い、友好を深めていくことが重要です。また、そのことがアジアの平和、世界の平和につながっていくと私は信じています。これからも日本は憲法9条を変えずに世界へ広げていって下さい。

 ―寧梦男さんの横顔・「中国帰国者」問題―

1990年ハルピンに生まれる。1996年、祖母両親と共に帰国。男の子ではありません。お父さんが夢の中で男の子が生まれてくる夢をみたところから付けた名前です。中国の一人っ子政策の中で、父親の気持ちが反映しているようです。この春、市内の高校を卒業し、4月から岡山大学に入学し、法学の勉強をしています。「倉敷日本語教室」は、中国「残留孤児」岡山訴訟支える運動の中から生まれました。「わたしたちは、なにじん?」と言う、ちばてつやさんのイラストを見た人があるかも知れませんが、中国帰国者にとって言葉の壁は、経済問題に劣らず大きかったようです。 訴訟原告団に加わったYさんは、3歳の時母親を亡くし、中国人に預けられ、育てられました。20歳の時、養父母より日本人であることを知らされたそうです。12年前に撫順より帰国。現在65歳。まだ十分な日本語は話せませんが、学ぶ意欲には頭が下がります。 同じくKさんは、市内の浦田に生まれ、7歳の時に一家は七虎力の開拓団に入植。昭和20年8月、一家6人は離散、Kさん以外はみな亡くなりました。13歳でした。その後中国の夫と結ばれ、一男一女を設け1986年、日本に帰国。「新しい自立支援法」が施行されて、いまからと言う時に、共に苦労してきた夫が旅だってしまいました。現在78歳。夫の分までと前向きに生きておられます。戦争の傷痕は癒えていません。
(「倉敷日本語教室」山縣武次郎)

シリーズ
戦争の記憶
私の引揚体験
朝倉 彰子

  「ヒタヒタヒタ」「カツカツカツ」……暗闇の中、密かに忍び寄る足音、そして荒々しい靴音。幼い頃、私はこの二つの足音が恐ろしくてならなかった。
耳を覆っても覆っても、指の間から足音が聞こえてくる。
その正体は何なのか。

1942年9月、京都府警の特高係長が八人の警官を率いて大阪の私の家を急襲した。
夕刻父が帰宅し風呂に入った途端、警察が踏み込んできて、私たち家族の目の前で父を連れ去ったのだった。治安維持法違反の罪であった。私はそのとき1歳7ヶ月。10歳年上の兄は、布施駅まで父の後を追って行ったという。 「おやじを連れて行った特高警察が憎く、殺してやりたいと思った」と兄は最近になって話してくれた。
私を脅かした足音、靴音の正体は、父を捕まえに来た特高のものであり、まさに戦争そのものだったのではなかったか……。
父は検挙されたその夜、一晩中拷問され、警察に6ヶ月、送検されて4ヶ月、検事拘留の上釈放された。
父は満州事変勃発のときはブタ箱に、日支事変勃発のときは検事拘留で警察署に、そして太平洋戦争が勃発するや、京都府警により検挙されたのである。戦争に反対する者を徹底的に弾圧し天皇制政府は戦争を推し進めていった。
1943年11月、治安維持法から逃れて私たち一家は中国東北部(旧満州)撫順市へ渡ったのである。

● 撫順―思い出の街

母の弟である叔父は奉天(現在の瀋陽)や撫順で建設会社や石鹸工場、また牧場などを手広く経営していた。父は奉天にある石鹸工場で働くことになった。私たちは撫順市東七条の小さな借家に住んだ。私のこの家での記憶はほとんどない。間もなく私たちは市郊外の南満達屋にある千金牧場に移り住んだ。 千金牧場には馬、牛、豚、驢馬、騾馬、アヒルなど多くの動物がゆったりと草を食んでいた。美味しい牛乳がたっぷりあって食の細かった私はご飯のかわりに牛乳を飲んで育った。
1945年(昭和20年)5月、父は現地召集で戦場へ送られた。母と5月の終わりに生まれた妹を含め、7人の子どもが残された。
シベリア抑留を解かれ、1946年12月に帰国した父が話してくれたのだが、戦場に行った父の部隊の人たちはすでにこの戦争の無意味さを知り、中国人を殺す意思はなく、木の影からパンパンと人に当たらないように鉄砲を撃っていたそうである。むしろ恐ろしかったのは軍隊内部での非人間的な制裁だったと言っていた。
撫順中学生だった兄は、援農ということで、学年ごと吉林省の開拓団へ派遣され、8月、ソ連軍の侵攻で命からがら撫順へ戻ってきたそうである。そして1945年(昭和20年)8月15日、私たち家族はこの牧場で敗戦を迎えた。姉は撫順女学校で、小学4年生だった3番目の姉は、新屯小学校で玉音放送を聞いたと言う。
両親はもちろんこの戦争には反対で、そのために治安維持法により何度も捕まったのだったが、中国に渡ってからもその姿勢は変わらなかった。多くの日本人が中国人に対して威圧的であったが両親は中国人の人たちと友好的な付き合いをしていた。
しかし敗戦と同時に牧場で働いていた苦力頭を先頭に牧場の家は襲撃された。それだけ侵略者の日本人に対する恨みは激しかったのだと思う。牧場の入り口の頑丈な鉄の扉を施錠し、私たち一家は事なきを得た。
ソ連軍が侵攻してきた。十六歳の姉は髪を剃り、男の子の格好をした。三人の若いソ連兵が牧場にやってきた。多くの日本人の悲惨な体験と違って、略奪のためではなく、暴徒の襲撃から私たちを護衛するためにきてくれたのだった。
最近、長姉の話から知ったのだが、母は牧場の家の屋上に高々と赤旗を掲げ、ソ連軍の司令部に出かけて、「私はボルシェビキ、私たち家族を守ってください」と交渉に行ったそうである。たぶん、牧場の動物たちを担保にしたのだろう。
動物たちは牧場から次々と姿を消していった。三人の若いソ連兵は、じゃがいもや黒パン、砂糖など食料も沢山持ってきてくれた。
ソ連兵は幼い弟を膝に抱き、「マコト、トキョイコ(誠、東京へ行こう)」と片言の日本語で語りかけたりした。 牧場の中には私たち家族のほかに、北のほうから逃れてきた青少年義勇軍の人たち、日本軍の敗残兵なども逃げ込んできていた。
ソ連軍が撤退し、八路軍、国府軍の戦闘が激しくなり、牧場も危険になってきたため、私たちは市内の叔父の家に移り、まもなく八条通りの叔父の会社の社宅に移った。そこは長屋になっていて、隣家との境は押入れで、そこには大きな穴が開いていた。私たち子どもは、その穴から隣の家に行ったり来たりして遊んでいた。その穴は布団を仕舞うと外からはわからなかった。暴徒に襲われたときに、押入れの穴を通って隣家に逃げ込むためにわざと開けられていたということを私は最近になって知った。引揚の日まで、母は手作りの人形や油揚げ、饅頭など街角で売って暮しを立てていた。
市内の学校は各地から逃れてきた人たちの収容所になり、多くの人たちが栄養失調や病気で亡くなっていった。その人たちを埋葬するため、まだ中学生だった兄が私たち家族を代表してその任にあたったという。来る日も来る日も穴を掘り、亡骸を入れる。思春期の只中にあった兄にとっては余りにも過酷な体験だった。その悲惨な体験を逃れるためか、兄は永い間その記憶を封印していた。その頃のことを憶えていないと言っていた兄が最近になって当時のことを少しづつ話してくれるようになった。 日本人に抑圧されていた中国人が各地で暴動を起こし、「うおー」という大地をも揺るがす地響きに似たうなり声をあげて迫ってくる有様に兄は恐怖を憶えたという。

● 引揚げ
終戦から11ヶ月の1946年(昭和21年)7月、いよいよ引揚の日が来た。この間、母は満州熱にかかり母乳も出なくなり、ミルクも手に入らず、妹は栄養失調になっていた。
(昭和21年)7月1日、私たち一家は撫順駅の前の広場に集められ、持ち物検査をされた。引揚者は一人千円の現金と靴三足、布団三組、その他衣類、食料などの持ち物が許可されていた。持ち物検査のため、靴まで脱がされたのを記憶している。私は母の帯びで作ったリュックにきゅうりをいっぱい入れて背負っていた。母は乾燥させた豚の肉など工夫をこらした食料をリュックに入れていて、私たちは飢えをしのぐことができた。
もちろん、途中の収容所での食料の配給を受けながらの旅であった。なべを持って長い行列に並び、配給を受けた日のことは今でも記憶に強く残っている。 私たちが無蓋列車に乗ったのは撫順駅から離れた貨物専用の駅だった。はぐれないように、姉の手を握って駅までの砂埃の舞う道を歩いた。夏の日が私たちをじりじりと照らしていた。無蓋の貨物列車の中で、雨の日は傘を差し、用便を足すのは命がけ、列車に乗り遅れないようにと必至だった。リュックを背負って元気よく歩いていた弟は引揚の途中、高熱を発した。叔父夫婦と別れ、途中の収容所で治療を受けながら、母子八人の私たちの引揚の旅が続いた。
錦州の収容所ですぐ隣にいた親子連れのことは今も忘れることができない。幼い姉妹を残し、母親が亡くなった。蝿が飛び交い、母親の死体にウジが這い回っていた。その家族の故郷は広島だと聞いた。小倉に帰るという男性がその子どもたちを連れて帰ってくれると聞いたが、その後の人生がどうなったのだろう。幸せになれたのだろうか。
私たちは葫蘆島から橘丸に乗った。病院船ということで、船内は病人であふれかえっていた。船底の何畳かの畳が私たちの居場所だった。すぐ目の前で医師や看護婦が病人、けが人の治療に当たっていた。手や足のない人たちもいた。弟は依然高熱が続き、母の顔も見分けることができず、顔は腫れ、耳の下から膿がたれていた。うわごとをいう日が続いていた。
近くに死体置き場があり、船内で亡くなった人が安置されていた。死の臭いが船内に漂っていた。そして次々担架に乗せられた遺体が私たちの目の前を運ばれていった。
その亡骸は甲板から海に埋葬された。日本に上陸することも叶わず、多くの命が海の藻屑と消えた。葫蘆島を出るときは窮屈だった船内が、上陸の時にはガラガラになっていた。姉の記憶では八割近い人が亡くなったようだった。病院船ということで、他の引揚船より多くの死人が出たのではなかっただろうか。姉はあの何人、何十人もの人の腐乱した臭いが、船を降りた後でもどこからか臭ってきて、離れなかったという。
船底の丸い窓ガラスには、ただ青黒い海の水が見えていた。息苦しさから逃れて私たちは甲板に上がった。大人も子どもも「花つむ野辺に日は落ちて……誰か故郷を想わざる……」と落ちていく夕日を見ながら一日も早く日本に戻りたい思いで、大声で歌った。
私たちは時々、船員さんの部屋に行き、おにぎりや、時には菓子をもらったりした。なかでも忘れられないのは「胡瓜の酢のもの」だった。野菜のほとんどない船の食事で、それはまた格別のご馳走だった。
撫順を出てから1ヶ月以上かかって、私たちは博多の港に上陸することができた。上陸のとき、私たちは頭からDDTを思い切り吹りかけられた。上陸するとすぐ、母は弟と妹を入院させるため、九州医大病院に向かった。
私とすぐ上の姉は長姉と兄に連れられて、岡山の父の実家に帰ることになった。満員の列車には窓から乗り込んだ。私たちは座席に座ることが出来、荷物は座席と座席の間に収められた。ここでも温かい支援の手があった。撫順中学の先輩であった六校生の津上青年が、博多港まで出向き、撫順からの引揚者の援護にあたってくれていた。
「撫順からの引揚の方はいませんか……」と、大声で呼びかけてくれた。そこで私たち家族を見つけてくれたのだった。
津上さんとその友人たちが私たちの荷物を博多港から駅へ、そして一緒に引揚列車に乗ってくれて、岡山駅から津山線に乗り換え、玉柏駅に無事に着くまで私たちを送ってくださったという。
出迎えに来てくれた親戚の人は、私たちがリヤカー二台分の荷物を持って帰ってきたこと、「着の身着のまま」という引揚者のイメージと違って、こざっぱりした服装で、駅に降り立ったことに大そう驚いていたそうである。私はそのとき親戚の人が持ってきてくれた白米のおにぎりが最高のごちそうに思えた。 母と八人の子どもたちが、一人として欠けることなく日本に帰ってこられたのは、「奇跡としか言いようがない」と言われた。
終戦後の撫順で、叔父のおかげで引揚の日まで雨露を凌ぐ家があったことと、母の、子どもたちを守りぬこうという強い意思、決断力、そして母を助ける頼もしい17歳の姉、15歳の兄、そして11歳の姉、7歳の姉と、家族が多かったことも幸いしたと思う。 また私たちを守ってくれたソ連の若い三人の兵士たち(イワン、ニコライ、フリージア)、引揚の荷物を運ぶ手押し車を作ってくれた中国の将校さん、橘丸の船員さん、そして博多上陸のときの津上さんと友人たちの援助……多くの人たちのおかげだと思う。

● 2007年8月
2007年8月、思いがけず私は中国東北部(旧満州)撫順市を訪れることができた。「岡山県龍爪開拓団の足跡を訪ねて、日中友好をはかる旅」に同行させてもらってのことだった。
撫順駅は戦前の姿を留めていた。姉や兄が通った女学校、中学校も少し姿を変えてはいたが壊されることなく残っていた。住んでいた家はなかったが、家のあった場所に立つことができた。「日本」という字に作られている撫順の街。日本が中国を侵略した事実を、街は歴然と物語っていた。
千金牧場の跡地にはアパートが立ちならび、牧場の面影は全くなかった。千金牧場は私たちが街へ越してから、撫順で亡くなった日本人の埋葬の場所になったということを、この旅をする中で知った。牧場跡からはおびただしい人骨が出たという。 牧場の近くにあった平頂山では1932年、日本軍による大虐殺があり、生存者による裁判が現在もまた続いている。 戦争はまだ終わっていない。

映画「いのちの山河」を支援しています/協力券発売中

映画 「いのちの山河〜日本の青空U〜」は、一昨年公開の「日本の青空」第2弾として目下撮影中です。今回のテーマは憲法25条・生存権で、平和憲法を生かす取りくみを広げる手段として、大いに活用したい映画です。 物語は日本の地方自治体で初めて60歳以上と乳児の医療費無料化を実現した60年代の岩手県沢内村が舞台。無医村で全国最悪の幼児死亡率の村が、当時の村長の故・深沢晟雄さんと村民の奮闘で、全国の乳児死亡率ゼロにまでになったドラマを描いています。撮影は2月クランクインし、6月には完成予定です。 製作に当たっては一口10万円の支援を募っており、倉敷9条の会でも趣旨に賛同し協力(1口・協力券100枚分)することにしました。岡山・倉敷での上映日はまだ未定ですが、協力券の販売を行っています。一枚1000円で全国共通(どこの映画館でも使用できる)となっています。


5月3日13時30分三木記念ホール/輝け日本国憲法!集会

演題「ようこそ軍隊のない世界へ」前田朗氏/立石憲利・住宅正人氏も来演/当日券1200円

倉敷9条の会講演会にお越しください/海外派兵を共に考えましょう

と き 2009年5月10日(日)午前10〜12時
ところ 倉敷労働会館2階
     演 題 「イラクからソマリアへ」
 −名古屋高裁「自衛隊イラク派兵違憲判決」をどう生かすか−
講 師 池住義憲氏(自衛隊イラク派兵違憲訴訟原告団長)

 トップページ 
inserted by FC2 system