文化の町倉敷には憲法9条がよく似合う〜倉敷9条の会

 トップページ 

倉敷9条の会  会報No.18 夏季号
倉敷9条の会・講演会 「イラクからソマリアへ」
―名古屋高裁の「自衛隊イラク派兵違憲判決」をどう生かすか―
講師 池住 義憲氏(自衛隊イラク派兵違憲訴訟原告団長)

 自衛隊イラク派遣の違憲性を問う全国訴訟は、今年5月岡山地裁の判決を最後に終了しました。この間、昨年5月には名古屋高裁で画期的な判決があったことはご承知の通りです。当会では、去る5月10日(日)に名古屋訴訟の原告団長である池住義憲・立教大教授を迎えて、裁判の経緯や判決に対する思いを語っていただきました。その一部を紹介します。

5月10日講演会の様子

○二つの理由
ご存じの方も多いと思いますが、自衛隊イラク派兵差止訴訟は全国11の都道府県で12の訴訟が五年間に渡って行われました。法廷の内外で私たちが取組んできた運動を思い起こしていただきたい。イラク戦争はまだ終わっていません。多国籍軍による軍事占領がつづいています。2003年3月2日、アメリカがイラクを攻撃したとき、二つの正当な理由がありました。一つは、「大量破壊兵器がイラクにあり、使う前に叩くのは潜在的自衛権の行使である」として、20世紀にはなかった新しい概念を21世紀の初頭にアメリカが既成事実化しました。これが7ヶ月後には間違った情報であることがアメリカ自らの調査で分かりました。2つ目の理由は、「フセイン政権とアルカイダの関係」です。これも嘘でした。証明されませんでした。2つとも虚偽だと判明した時点で、すべてをストップして、撤退すべきでしたが、今日もなお6年に渡ってイラク戦争はつづくという異常な事態になっています。

○イラク特措法
ブッシュがイラクを攻撃した直後に外務省に電話が入りました。受けたのはトップ官僚である竹内行夫です。彼は当時の外務省事務次官を2002年から2005年まで務めていました。彼は小泉首相に「先進国でいち早く支持を表明した方がいい。その方が日本とアメリカの同盟関係が強まる」と進言しました。しかしこの時点で法的根拠がありません。そこで時限立法で四年間に限ってイラクに自衛隊を派遣できるように「イラク特措法」をつくりました。8月1日から施行し、4ヶ月かけて準備をします。12月26日には小牧基地から航空自衛隊の先遣隊をクエート、イラクへ派遣します。
 私は反対の人たちと現地に押しかけました。日本の制度では違法な法律があるだけでは裁判はおこせません。実行に移され不利益か苦痛が生じた場合は、保護と救済を求めて裁判所に訴えることができます。これが日本の制度です。先遣隊が派遣されたこの段階で、違憲な特措法が実行に移され、それによってアメリカが行っている国際法違反の戦争の加害者、共犯者になってしまったわけです。私は、ベトナム反戦運動などにかかわってきた体験から、それはどうしても許すことができない。そういう思いで裁判を起そうと思ったのです。
 私は名古屋から全国に提訴を呼びかけました。第1次で1262名。第7次まで募集して3268名が名古屋だけで原告に加わりました。それ以外に北海道をはじめ全国11ヶ所で5800人の原告が集まりました。2年間かけて第1審がありました。途中で裁判長が交替しました。ひどい裁判長で、敵意むき出しで、国が刺客として送ったのではないかと思うほどでした。証人尋問もせず、陳述の型通りだけで一切無視。期間だけが過ぎる空しい裁判でした。
 私たちは、名古屋高裁の前で一年間抗議活動をしました。結審の翌日から毎週月曜日に行いました。「裁判長聞こえますか。私は7月13日に1号法廷にいたイラク派兵差止訴訟の原告の池住です。あなたは7月13日の法廷でどのような訴訟指揮をしたか覚えていますか。私たちの意見を、理由も言わないで全部却下しました。そして自分が用意したメモをあなたは読み始めましたね。私はその異常さに気づいて、すぐに異議の申し立てをしました。大きな声で、異議、異議、異議と申し立てました。あなたはそれを無視しましたね。事前に用意したメモを、下を向いてただただ読みつづけるだけでした。私たちはさらに異常さに気づいて、忌避を強く申し立てました。この時点で裁判をストップして裁判官で合議して忌避を受け入れるかどうか判断を下さなければなりません。しかし、あなたはそれも無視して、ただメモを読み終え、そして立ち上がり、3人の裁判官は法服を翻して出ていきました。このような訴訟があってもいいのですか。私たちは憲法で保障された正当な裁判を受ける権利を侵害されました。こんなことがあってもいいのでしょうか。裁判所のみなさん!」と訴えつづけました。

5月10日講演会の様子 5月10日講演会の様子

○歴史的な快挙!
 2年間の戦いがひどい判決になったので、私たちはすぐに控訴をしました。そこで証人尋問を勝ち取ることができました。控訴する時に裁判官によってこんなにちがうのかと実感しました。2年間の審議があって4月17日に判決。実質的勝訴したので上告はせず、5月2日に確定しました。行政府の行為が憲法九条に違反という判決が確定したのは、61年の歴史ではじめての快挙でした。
この裁判の提訴内容は三つありました。一つは自衛隊のイラク派兵は憲法違反という立場での違憲確認請求。二つ目は、違憲行為である派兵差止請求。しかし、この二つは今の裁判制度では訴訟の利益性がなく、却下されることは事前に分っていました。三番目が損害賠償請求。これには法的根拠がありました。国賠法の一条一項に、「国または公共団体に所属する公務員が違憲な行為をして具体的な権利が侵害されるときは国が公務員に代わって支払う」とあります。この条項によって違憲性を裁判所に認めさせるのが最大の狙いでした。あわよくば平和的生存権も認めさせたいと思っていました。
結果は、違憲性について認めました。そして権利性、つまり平和的生存権もなんとこれも認めたのです。これにはびっくりしました。会見で200%の勝利と言ったのはそういう意味です。三番目の被侵害権は未だ生じていないとして認められませんでした。三つ揃わなかったので棄却となり、形の上では負けでしたが、実質的な勝利です。ここで皆さんも歴史の証人になってもらいたい。
 当日4月17日は雨でした。一時半から判決があり、250名の傍聴者がつめかけていました。120名は法廷に入れますが130名は外で待っていました。当日を再現すると、裁判長(青山邦夫裁判官)よりの主文は「本件控訴いずれも棄却する」―これはわかっていました。次ぎになぜ棄却したか要旨が述べられた。政府の判断基準を淡々と述べられましたが、いつもの入り方とは違っていました。イラクの実情・事実認定について私たちの主張と同じことを裁判所が認定した事実として言っています。バクダットの話になってもっと分りやすく言っている。「よってバクダットは戦闘地域である」。次ぎに航空自衛隊がやっている活動。これも私たちの主張通り。
―少なくとも他国籍軍の武装兵員をバクダットへ空輸するものについては、他国による武力行使と一体化した行動であって、自らも武力の行使を行ったと評価を受けざるを得ない行動であるということができる(判決文より)。
ここは、日本只今参戦中宣言です。「政府の皆さん、戦争認識が甘くないですか。あなた方は後方支援だと言っていますが、参戦中なんですよ。市民の皆さん、日本は九条があるから戦争に巻込まれることはないと思ってはいないですか。九条は否定侵害され壊されている。このままでいいのですか」と問いかけているのです。
 そしてクライマックス、「よって輸送活動は政府の憲法解釈に立ちイラク特措法を合憲だとしてもイラク特措法2条2項、同3項、かつ憲法9条1項に違反する。」
 平和的生存権のところは、もっと凄い内容です。平和でなければすべての人権や権利は侵害、否定、制限される。だから平和に生きるということは、すべての人権や権利の大前提。もっとも具体的な権利だと言っているのです。 ―例えば、憲法九条に違反する国の行為によって個人の生命、自由が侵害され、又は侵害の危機にさらされ、又、憲法九条に違反する戦争の遂行への加担・協力を強制されるような場合には、裁判所に対して当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる(判決文より) この権利を勝ち取ったのが4・18判決です。これは夢心地でした。本当に言ったの、夢じゃないのと思いました。自分の体重の重みを感じない。浮いていました。二人の若手弁護士が「画期的判決」を持って走って行きました。法廷の中にも外の歓声が聞こえてきました。
5月10日講演会の様子 5月10日講演会の様子
この判決はみんなで勝ち取ったものです。この60年間平和を願う取組みはほとんど抑圧され、負けの連続でした。しかし前進があった。蓄積がありました。その蓄積が名古屋で普通の3人の裁判官が普通の判決をしてくれた。それを歴史的といわなければならないほど他の裁判はひどかったといえます。みんなで勝ち取ったものだから、持ち帰って回りの人たちにも広げてもらえたら、と思います。

  ○ソマリアと憲法9条
ソマリアはもっと危険だと思います。「海賊対策新法」では武器の使用を認めており、もっと積極的に戦闘行為を起すことにつながる法律です。ポイントの一つは、日本船以外のすべての外国船に対して警備活動を可能にした法律である点。海賊船とそれ以外の難民船や反米組織グループの船などをどうして見分けるのでしょう。近づいたり、進路妨害をしたりすると、威嚇射撃をする。これは憲法九条が禁じている戦闘行為です。又、武器の使用についても、正当防衛だけでなく任務の遂行上必要があれば許可しています。任務に当たるのは海上保安隊としながら、自衛隊の名も目立たないように入っています。現行犯逮捕の手続きは一切入っていません。刑事訴訟法を準用すると言っていますが、不完全な法案だと言わざるを得ません。P3C哨戒機の情報をアメリカに出すことにもなります。ということは、アメリカがやっている立ち位置で戦闘行為に加わることになり、集団的自衛権の行使にもつながることになるのです。 終わりに、今回の判決を勝ち取った要因を一つだけ上げるとすれば、「提訴したから」です。変化は少数社会から生まれます。まわりが絶対駄目だ、負け戦だと思っていても、最後まであきらめないことです。共にがんばりましょう!

シリーズ  戦争の記憶
『6月に思う』
三村 啓介

季節はめぐる。四季を持つわが日本列島は、さまざまな美しい姿を見せながら、また新たな季節へと移っていく。 不況にあえぐ世界の情勢や、かけがえのない命にかかわる痛ましい事件。そんな世相をしりめに、今年もまた、「櫻」から、みずみずしい「新緑の季節」へ。そして、温暖化を実感させる、ねじれた不順の日もあるが、緑濃き「万緑の季節」六月へと季節は正直に移っていく。 今年も74歳の、「6月」を迎えた。個人的なことだが、私は6月になると、毎年必ず思い出すことがある。 それは、私が幼い日に死んだ父と、わずか5歳でアメリカ軍に命を奪われた、私が勝手に「直女」と呼んでいる西山直子ちゃんのことだ。ともに昭和20年の6月に死んだ。
60歳だった父は病気で、直女は6月22日の水島空襲の日に戦争の犠牲者となって小学校にも行くことなしに、幼いままに人生を終えた。
その年の6月も、すでに入道雲の峰がまぶしく銀色に輝き、むくむくと盛り上がっていた。その後、本格的な夏を迎えた8月、わが日本は、歴史の汚点ともいえるあのいまわしい戦争に終止符を打った。それは、人々を苦しめ、実に250万人前後の死者や行方不明者など、尊い犠牲者を出しての終戦であった。
想像を超えるひどい食糧難の中で、病のため死んだ父と、米軍の投下した爆弾で死んだ直ちゃんの死は、直接何のかかわりもないが、私の胸の中では、ひどく結びついた。しかも強烈な思い出となっている。
人はだれでも、ぬぐいきれない思い出をかかえて生きている。2人の死は、いかに忘れたくとも忘れられないできごとだった。
縦の糸、横の糸に織りなされる布のように、人間も時の流れの中で、どこかで、誰かと、又、何かとつながりながら、時には運命の糸にあやつられながら生きているのである。今ここに、今の自分があるために、どんなに多くのことや、人とかかわり合ったか知れないのだ。
?   ?   ?
6男坊の私は、還暦が近い父とは、おじいさんと孫程度年が離れていた。その父が亡くなる前に、職場で倒れ、同僚たちにかつがれて運ばれてきた。いまでいう脳卒中である。しばらくの間は意識をとりもどして家で寝ていたが、末っ子の私に枕の下から小銭を出して、「何か好きなものを買え」とくれたりした。また、近所の同輩がやって来ると、「この子が大きくなるまでは何とか生きとりたいもんじゃ」などと、言ったりもしていた。
父は、児島三白の一つの「塩」つくりに励んでいたが、釜家の塩水を煮る火で焼いた焼き芋を、よく持ち帰って食べさせてくれた。飢饉のような食糧不足の戦時末期なのに、どこでどう工面したのか。お粥や雑炊ばかり食わされていたひもじい子供にとって、紙に包み、だいじそうにふところにいれて持ち帰ったホカホカの焼き芋は、とてもすばらしい食べ物だった。
忙しく立ち働いた父とは、年の離れ過ぎているせいもあって、平素から親子としてのふれあいは極めて少なかった。その父が、ある日、出身地の「玉島へ行くからついて来い」と言った。「ウン」と言って承知はしたものの、児島から玉島へ行くのはとても大変だった。下津井電鉄の前身、下津井鉄道の児島駅から福田駅まで小さな汽車に乗るのはよいが、後は徒歩である。福田駅のあった福江から、広江、つづいて東塚、南畝、水島、連島、更には霞橋を渡って、玉島の町なみを経て西の勇崎まで行った。
今もあるが、道中の中ほど、水島の航空機製作所の手前に、ガスタンクがそびえていた。必死の思いでそこまでついて行った私に、「この辺が半分所じゃ」と事もなげに言ったので、子供心に先が思いられた。
水島には防空壕がほってあるという、文字通り亀の形をした「亀島山」がある。その下を通って、「ツーシンデン」と父が発音する鶴新田を通り、高梁川を渡る霞橋にさしかかる。金属でできていた欄干は戦時の供出で既に取り去られていた。川を渡る初冬の風が、父の黒いオーバーの裾をなびかせていた。このオーバーはマントに似た上着で、当時インバと呼んでいた。前を行くそのときの父の印象が、なぜか強烈に残っていて、今でも忘れることはない。
目的地の勇崎に着いたときは、昼をとっくに過ぎていた。「オーイ、フーネーよ!」と遠慮もなく大きな声で呼びながら、幼なじみとおぼしき家に入っていった。出所の家のほかは、気楽に立ち寄れる家は、60近い父にはもうすでに少なかったようであった。私が父と児島を出て、よそへ行ったのは生まれて初めてのことで、また、それっきりのこととなった。
その父が、とりつかれた病魔の再発で、戦争が終わる前の6月に帰らぬ人となった。その直前のある日、しきりに風呂に入りたいとせがんで母や幼い私を困らせた。何とかしてやろうと頑張ったが、女子供では、不自由になった父の願いをかなえてやることが出来なかった。
葬式の日も空襲警報が発令されて、予定の葬列の出発が延びてしまった。当時の納棺は、直方体を縦にした「座棺」で、近所の主だった男衆が綱をかけてかつぎ、父が生前買っていた墓地のある山に運んで行った。そしてこれまた近所の男手を募って、掘り上げた墓穴の中に、仏様となった父を静かに降ろして、簡素な葬式は終わった。私は、しばし敵の飛行機が飛んでくるかも知れない初夏の青空を眺めながら、合掌して棺に納まり、地中の人となった父のことを思った。
?   ?   ?
さて、父の死んだ頃、今の子供には想像もつかないことだろうが、全国の大都市がアメリカ空軍B29の空襲で焼け野原にされていた。警察が出て、山に逃げながら、子供の私も岡山や高松の空襲を目のあたりにした。敵国アメリカは「鬼畜」だと洗脳されていた。あちらさんの予定ではどうなっていたのか知らないが、わが倉敷には空襲はなかった。
だが、航空機製作所のあった水島は空襲の標的となった。アメリカは、命を犠牲に体当たりしてくる戦闘機の製作所を見逃すわけはなかった。広江の山を越えたB29の編隊は、5千メートルの上空から、雨あられのように爆弾を投下した。金曜日なのに、なぜか工場は休日だったという。落とした爆弾は実に63トンともいわれ、工場も、できあがっていた飛行機も壊滅状態となった。父が逝って半月余りの6月二22日のことだった。
1週間ほど後、岡山も空襲され、街は焼け野原となった。昭和20年6月といえば、日本列島いたる所が連日のように空襲され、多くの死傷者をだし、建物が焼かれ、破壊されていた。
グアム島や硫黄島など南の島を、激戦の末占領したアメリカ軍は、そこにすぐさま飛行機の滑走路をつくった。日本の大都市の運命は、その滑走路から日本の本土まで大型の爆撃機をとばせるようになったアメリカの思うままとなったのだ。
6月の空襲と、更に激化した7月の空襲を合わせると、日本の被害は甚大で、ほとんど息の根がとまりそうになった。 世界で初の、あの悪魔のような原子爆弾の投下は、もう目の前に迫っていた。8月6日、1発の爆弾で、わが中国地方の都市の雄・ヒロシマは核爆発というとんでもない洗礼によって、実に20万人以上もの人が死んだのだ。
ビカー! と光って、ドーン! と破裂した。かつて聞いたことも、見たこともない爆弾を、人はすかさず「ピカドン」と言って恐れた。
その後、長崎にも同類の爆弾が投下された。日本は完全に息が止まり、敗戦のうきめを見るに至った。
その歴史的な8月を目の前にした同年6月は、ちょうど一面に黄色く実った麦を刈り取る時期にあたっていた。兵隊に取られて男手が足りない農家が多いため、国民学校(現在の小学校)の5、6年生は「動員」と称してそうした農家へ麦刈りに行かされた。
軍国主義の日本列島、こぞって戦時体制を強制された時だけに、学校へ行って勉強などとは、とんでもないことだった。
運動場を耕して芋(サツマイモ)を作ったり、船に乗せられて沖の島(釜島)へ行き、上陸用舟艇を敵の目から隠すための防空壕づくりに参加させられたりした。合間には防空頭巾にゲートルといったいでたちで、学校の近くの、朝間の山に避難する訓練をしたり、先を鋭くとがらせた「竹やり」で敵と戦う訓練をしたりしていた。
また休みの日を利用しては、山の松の根を掘らされたり、野草として生えているカヤに似たマグサを刈らされたりした。前者は飛行機の燃料に、後者は戦場の馬の食糧にするためである。
中でも「麦刈り」の動員のことは、一面黄色に広がった麦畑や、その時お昼に食べさせてもらった白いにぎり飯の事とともに、強く思い出される。
子供だからといって容赦はなく、ひもじく不自由な暮らしを強いられ、苦しくとも、文句の言いようもない時期だった。
?   ?   ?
歳月は、世の中のできごととは無関係に黙々と流れていく。そして人はめぐる季節の中で生きている。
人には誰でも色あせない記憶があるのだろうか。私にとって、10歳の時のあの悲しくも苦しかった記憶は色あせることはない。
中東の戦争でよく報じられているように、戦争はいたいけな子供まで巻き込んでいくし、また、どこまで広がっていくかわからない恐ろしさがある。
水島の空襲でも、お母さんと5歳の娘さんを直径10メートルの穴があくほどの爆弾で1度に失った人があった。西山正子さんだ。それを知って、お話を聞きに行ったが、「あの悲しみは何年経っても変わりません」と、涙ながらに語ってくれた。それがご縁で、命日には水島を訪れ、正子さんと一緒に、毎年西山家のお墓をおまいりするようになった。
直善童女 西山直子 行年 五才
昭和20年6月二22日
小学校へも行くことなしに、おばあちゃんに抱かれるようにして、幼いままに水島の空に昇った直子ちゃん。その戒名が、優しいおばあちゃんと共に墓碑の一角に刻まれていた。その戒名の如く、「この子は善い子だったんじゃ」と、合掌しながらくりかえす正子さんを見ていると、殺した者への憎しみが、銀色に盛り上がった雲のようにむくむくと、込み上げてきた。
「悲惨な戦争、尊い平和、大切な命」のことを、改めて強く思った。
その正子さんも既にこの世の人ではない。平成15年1月、92歳の天寿を全うしての、直ちゃんのいる天国への他界だった。
?   ?   ?
高齢者と呼ばれるようになって、水道の栓をしめわすれて妻に怒られたり、ついさっき何をしたやらわからず、とまどうこともあるのに、64年前のことは、あの時何をした、その時どう思ったなどと、細かい点まではっきり覚えているのだ。まことに不思議なものである。
日本人はみんな戦争という不幸を背負わされていた。どんなにさわやかな6月の晴れの日でも、みんなずぶぬれの服を着せられているようなものだった。
いつの時代も、だれにとっても命はかけがいのないもの。「戦争を知らない子どもたち」の歌は、平和な時の子供を歌っているそうだが、子々孫々まで、理不尽に人の命を奪う不幸な戦争があってはならない。
グローバルな世界の動きの中で、何か大きな力が動いて、戦争を放棄した日本が、再びいまわしい戦争に巻き込まれることのないよう、為政者は特に智恵をはたらかせてほしい。
そして、みんなで「戦争の悲惨さ、平和の尊さ、命の大切さ」のことをしっかり考えていかねばならない。
幼い日に見て体験したいまわしい戦争のことは、ずっと私の心の中にあって、糸を引くように今日に至っている。
?   ?   ?
今年も夏がきた。入道雲が銀色に盛り上がる。興除のあたりでは、一面まっ黄色に広がった麦畑で、鎌でなくて機会の使用ではあるが、麦刈りが始まっている。 私にとっては、夏がくれば思い出すのは、「なるかな尾瀬」ではなく、父であり、直女であり、空襲なのである。

映画紹介
羽田澄子演出作品
『嗚呼満蒙開拓団』
大森 久雄
―開拓団と方正(ほうまさ)地区日本人公墓の真実を語る―

2007年1月、東京地裁、中国残留孤児裁判判決の日から始まる。
不当判決。判決会見で全国原告団代表が語る。この酷い判決を許さない。闘いが続く。
やがて、世論を動かし、国家賠償訴訟に勝利する。
中国残留孤児とは、1945年8月、敗戦時、中国に残され、中国人に育てられた子供を指す。国策として満州へ送り込まれた開拓団の子供が多かった。男子は召集され、年寄り、子供、女性が残された。そこへソ連が参戦する。ヤルタ協定で米英も認めていた連合国軍の作戦である。
関東軍、政府、地方官庁の軍人、役人がいち早く逃げた。情報を知らされず、守ってもらえるものもない人びとが荒野へ投げ出される。逃避行。
幾多の死があった。一つひとつの命が消えた。
その実相を体験者の証言で綴っていく。カメラは動かず、わずかの表情も見逃さない。証言の内容は重い。
やがて、避難民が集結した方正に、亡くなった日本人のために中国人が建てた日本人公墓があるのを知る。
2度の訪問が記録される。中国人と結婚し、方正の山を開墾した日本女性がおびただしい遺骨を見つけ、県人民政府に公墓建設を願ったようだ。
中央の周恩来の尽力で建立され、文化大革命の嵐を抜け、その人と公墓が守られた。
日本軍国主義と日本人民とを区別する周の思想が高く評価される。
敗戦直前まで開拓団を送り込み、敗戦時に見捨てた国家とは何かを静かに鋭く問うている。
  今秋、岡山のシネマクレールにかかる予定だ。

 《事務局より》
前回(春季号4月25日)以降に募金をお寄せ下さった方を紹介します。尚、新入会員はなし。
《募金》 藤本亘▽内田季野▽中埜時子▽渡辺政美▽住友洋介▽日野定幸▽石井淳平▽石井和子(敬称略)ありがとうございます


倉敷9条の会のホームページ拝見しました。私の曲・「9条」は2004年の7月に作りましたが、曲を聴いて頂く方が少しずつ増えていて大変うれしく思っています。私の父は戦争には行かなかったのですが、母の二人の兄が中国とフィリピンで戦死しております。「9条」はその二人の叔父と、息子たちを亡くした母(私のおばあちゃん)の悲しみを思ってつくりました。私も職場の9条の会に参加して、定期的ではないのですが駅頭宣伝などに参加しています。私の歌はご自由に使ってください。よろしくお願いします。平和憲法を守るためにともに頑張りましょう。―滋賀県 

倉敷9条の会・第5回総会&講演会のご案内

●日時 2009年10月24日(土)14時〜 ●場所 倉敷労働会館2F
●内容 @総 会 事業報告、会計報告など      A講演会 演題「自分を探す旅―八月の記憶」
講師プロフィール:1927年生まれ。俳人。県現代俳句協会顧問。県俳人9条の会呼びかけ人。
新見市在住。/軍国少年で江田島海軍兵学校入学。終戦後岡山第六高等学校最後の卒業生。中 学、高校教師を勤める。俳句歴40年、受賞多数。倉敷での句会に毎月通っている。

 トップページ 
inserted by FC2 system